韓国語の勉強を2年以上やってきて、TOPIK6級にも合格して、韓国語を使って仕事が出来たらいいなと思って翻訳の勉強を始めて。
そしたら翻訳(※書籍翻訳)がすごく面白くて、ぜひ韓国の本を翻訳してみたい!と思うようになった。
でも、そう簡単に翻訳家になれるわけではないし、ましてや自分の訳書が本屋に並ぶなんてことは夢のまた夢で。
翻訳家にはなりたいけれど、もしなれなかったら?
それなら翻訳家じゃなくても、趣味で翻訳をすればいいじゃんって思ったりもした。
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翻訳をするのに翻訳家になる必要はない
私は翻訳が好きだ。だから翻訳がしたい。
翻訳家になって自分の訳書が本屋に並べばものすごく嬉しいし、翻訳でお金がもらえれば言うことはないけど、翻訳がしたいならなら翻訳家にならなくてはいけないということはない。
そうだ。翻訳をするのに翻訳家になる必要はないのだ。
翻訳したいならすればいい。翻訳したい本をただ翻訳すればいい。
それだけでも十分楽しいし、楽しいことをしていたら幸せなのでは?
好きを仕事にするということ
「好きを仕事にしよう!」
なんて言葉をちょっと前までよく目にした気がする。
好きなことが仕事になれば、仕事が好きなことであれば、それはそれは楽しいことだろう…と多くの人は考えるに違いない。
でも一方で、「好きなことは仕事にしてはいけない」なんて声も聞く。
どっちが正しいのかはわからないけど、好きを仕事にすれば幸せになれるという確証があるわけでもないし、特別好きでもないことを仕事にしているからといって不幸であるとも限らない。
韓国語が好きだから韓国語を使う仕事がしたいという気持ちはあるものの、それは本来、
できる限り多くの時間を韓国語に触れていたい
という願いであって、「韓国語を使う仕事がしたい」というのは一つの手段に過ぎない。
そう考えると、別に韓国語を使う仕事をしなくたって、翻訳家になれなくたって、私はやりたいことをただやりたいだけやればいいんじゃない?って思った。
好きなことでお金を稼げないなら
好きなことって別にお金をもらえなくてもやるし、お金がもらえないからと言って、「じゃあ、やーめた」となるわけではない。
だからもし私が翻訳家になれなかったとしても、「じゃあ、翻訳やーめた」とはならないだろう。
好きなことでお金が稼げないなら、他のことでお金を稼いで好きなことは「趣味として」「遊びとして」やればいいじゃないか。
「好きなことでお金を稼げれば幸せだ」
「好きなことを仕事にすれば幸せになれる」
なんて考えがあるから、好きなことでお金を稼げない、好きなことを仕事に出来ない自分が不幸なように感じてしまう。
別に好きなことで稼げようが稼げまいが、それを仕事に出来ようが出来まいが、どんな形であれ好きなことをやれているのならそれだけで幸せなのでは?
どっちでもいいが一番幸せな気がする
あまりネガティブなことは考えない方ではあるけれど、もし私が翻訳家にはなれなかったら、別の仕事をしながら翻訳を続けていこう。
翻訳家になれても幸せで、
翻訳家になれなくても幸せで、
だからどっちでもいい。どっちでもいいが一番幸せな気がする。
何かを成し遂げるために、目標を達成するために頑張るというのは素晴らしいことだけど、
何も成し遂げられなかったとしても、目標がなかったとしても、ただひたすらその過程を楽しむっていうのでもいいかもね。
だって、結局は楽しんだもん勝ちでしょ?